春や昔の夢のやう

小林秀雄を学ぶ池田塾に通う、歌と物語がすきな塾生の雑感です。

「思い出す」こと

「思い出す」という言葉を小林秀雄は度々使う。

 

たとえば本居宣長の奥墓(おくつき)。
本居宣長にはお墓が二つある。家族のお墓と、自分だけのお墓とされる奥墓。
奥墓は山の奥にひっそりとあって、シンプルなお墓と、自筆の墓標と、生前大好きだった桜の木が植えてある。

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それは彼がどんな人間であったか、「思い出して」もらうための手続きとしてのお墓のあり方なのだと、本居宣長記念館の館長が語ってらした。
「けれど、私たちは直接は宣長さんのことを知らない。それに本居宣長の言葉は、そのままでは私たちはもう簡単には読むことができない。本居宣長が植えた桜の木は、高くなりすぎて、もう花は肉眼で確認することができないのと、同じことのようです」
そんな風に館長は仰った。

 

本居宣長という人は文字通りの天才(奇才)で、明らかに人の一生で終えられるような量とは思えない量の仕事をしている。
そういう意味では小林秀雄も同様であり、それだけでも、どんな人であったのかなどということは凡人の私たちには想像がしがたいところがある。

 

けれど、たとえば愛する家族や恋人や友達が亡くなったときにするように、他人のことを親身に「思い出す」という心の使い方があるということを小林秀雄は語っていて、
私はそれがどれほど難しいか、どれほど遠いものなのか、そしてほんの少しでも「こうだったのかな」とくっきりと思い浮かぶときに、どれほどにわくわくするものなのか、今回の旅でそれを思い知ったように思う。

文章を読むだけでなく、資料を見てその字の形を見たり、同じ部屋に座ってみたり、街を歩いてみたり、そういうことをしてその欠片を掴めるかもしれないという予感のようなものは、何回か味わった。

小林秀雄が選んだ「本居宣長」という生涯最大で最後の仕事は、本居宣長のことをよく「思い出す」ことだった。
そしてその仕事がどんなに美しいかを、私たちはまだ生身の自分のままで確認することができる。
そういう時代に私たちは生きていて、それはやっぱり奇跡のように思った。