春や昔の夢のやう

小林秀雄を学ぶ池田塾に通う、歌と物語がすきな塾生の雑感です。

上海とコスモポリタン

空港を下りて乗ったタクシーが走り出した瞬間から、空から降るいくすじもの光に街が包まれていくのを見て、なんとなしに旅の成功を予感した。

8年振りの上海。

突如訪問を思いついたのは、休職中で親が飛行機代を工面してくれたからだったが、小林秀雄を勉強しはじめて一年半、日本というものを一番根元から感じようとする作業のなかで、しだいに私は自分の出自を知らなければならないような気持ちは強くなってきていた。

生まれや育ちや環境に関係なく、面白いもの、美しいものを感受することを、最優先にしようと思ってきた人生だったように思うが、興味あるすべてが小林秀雄から離れることができなくなった今、彼が徹底的に考えた「日本人とは何か、日本の背負う歴史とは何か、まず歴史とはどう向き合えば良いか」といったことに誠実になろうとすればするほど、自分のことが気になるのは当然かもしれない。

歴史は鏡であると小林秀雄は言う。

自分を映す鏡のことを手探りで学んでいくうちに、日本人ではない、中国人でもない自分から、私はとうとう逃げ切れなくなったようだった。

それならば、真正面から向き合いたい。

それでずっと逃げてきた帰省をついに決意した、そういったことだったのである。

そんな私へ贈り物をするかのように、意識せず鞄につめた、たった一冊の本は小林秀雄全作品「中原中也」、彼が従軍記者として中国に渡ったときの記録「杭州」「蘇州」などが収録されていた。やはり人生は仕組まれているらしい。

 

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タクシーが上海の中心部にある自宅近くを通る。自宅近くは景観保存区なので、8年前とさした変化がなく、懐かしい気持ちが一気に立ち上がった。

たとえば日本で、夏に寂れた商店街に踏み込むと突然懐かしい思いに襲われたり、夢に時折出てきてはどこかで見た事があると思ってきた景色。

それらの、記憶の片隅にある、いわば原風景というものが、すべてこの場所から来ているのではないか。

上海のどこにでもある、汚い小料理店の並ぶ通りや、頭を地べたにつけている乞食や、行き交う自転車を見て、それらすべてを包む背の高い梧桐の木の葉の擦れる音を聞いて、それこそ風のようにその考えはやってきた。

懐かしさの奥にある、やわらかく、しかし消えることのない痛みを孕んだ景色。

わたしの身体が持つ、そんな幻や夢の断片的な景色のすべてが、この街からできているのではないか。

6歳のときに中国を離れて以来、学生の頃は夏休みに何度か帰ったことはあるけれど、一ヶ月以上の滞在はしたことがなかった。

 

翌日、両親や親戚に連れられて、いろいろと街を歩く。自分でも散歩をする。

昔より随分きれいになった路が沢山あった。摩天楼はさらに増えている。親戚はそれを喜んでいるだけで、環境がどうのとはまだ言い出していないようだ。

新しい観光スポットは、商業化が著しく、どこを訪れても同じお土産を売っていたりして、少しも面白くない。言葉は悪いが、上海には今も昔も、観光する価値のあるものはさして無いのである。

道路の真ん中で遠慮もなしに行われていた通行人同士の喧嘩も少なくなり、サービス業の従業員も、けだるそうにしているものの、以前の「けんか腰」な態度から比べれば随分と親切になった。

小さな通りに入れば、それこそ時間に関係なく美味しそうな匂いがした。

私は確かめるような気持ちだった。日本に来てから24年の間に、昨日ほどに鮮明な確信を上海に対して感じたことは一度もない。

そして確かめる作業は、驚くほどうまくいった。

どれだけ歩いても、街のどこにいってもそれはただ、私の記憶のなかにある上海なだけだった。いつも自分のなかにある何かと、街は呼応して、おしゃべりしているみたいに感じた。私は、この街が好きだった。

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それにしても、気合いの入った観光資源もなく、今や不動産バブルで日本より物価が高く、街をゆく人々の顔もどことなく冴えない色が多い街の、一体何がそこまで好きなのだろう。上海とは何だろう?

ずっとそのことを考えていると、あるとき、秋に吹く強い風が過ぎていったとき、砂埃りが舞い上がってひとつ、思いついたことがある。

この街は、砂埃の街なのではないか。

8年前、いや20年前から同じ印象だった。どうしてもきれいになりきれないのである。足元にはどこからかやってきた砂や、空気にはスモッグや、靄がいつもかかっているのだ。そしてきれいになりきれないところが、この街を作っているような気がした。そもそも、流れる河も黄河の支流で、濁っているのである。

このことは、きっと日本人は寂しく思うだろう、と感じた。空気から水から出汁の色まで、日本の文化はことごとく澄み切っている。

しかし私はどうやら、確かに上海という街で生まれたらしい。濁りを当然のことのように受け入れられる自分がいるのだ。

この旅の間じゅう、その思いがどんどん強くなって、自分のなかで砂のように沈殿していくのを感じた。それはこの街の砂とは違い、舞っても気がつかない、暗闇のなかの砂である。

 

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小林秀雄杭州」のなかに、中国で長く生活するロシア人の老婆のコスモポリタンの話が出てくる。

「私は人類ではない。somebodyだ」と、その老婆は言う。

老婆の描写から、小林秀雄はその悲しみを鋭く切り取っていて、流石だと思った。

これまで私はコスモポリタンであると、十数年に渡って思ってきた。それが嫌だったこともあるし、むしろせいせいしたと思うこともあった。どこまでも離れてやろうと思ったこともあった。しかし自分で気がつきもせずに、その問題はずっと眠っていたのである。

私はもう、コスモポリタンではない。

小林秀雄に出会い、池田先生に出会い、自分の痛みはどこから来ているかを徹底的に探そうとして、30歳でもう一度上海に来た。今、コスモポリタンではないと感じることが、どれほどに深く心に作用するか、私は身をもって体験することになった。

そして本居宣長や、源氏物語や、古事記を勉強する上で、どこか心の片隅で不安だったことが、一度に晴れたような気がした。

これからずっと日本で住みやがて死ぬことも、あるいはこれからすっかり上海が変わり今の面影がなくなってしまったとしても、構わないように思った。

少なくとも一度は、私は故郷を見つけた。それで十分だった。

 

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どこにも属することのできない、漂流する者であることの悲しみを、上海を去る空港で今、切に感じている。

私と同じように、幼くして外国へ渡航した中国人二世の子供たちが、やはり故郷を見つけることができずに、コスモポリタンとしての孤独を感じながら生きていることを想わずにはいられない。 

しかし私自身、そのことに気づいていたときも、どうすることもできなかった。

自らに向けて真っ向から問いを立てようとしなければ、孤独も悲しみも痛みも、感じることすらできない。

そして私は今こう思う。

おそらく誰にとっても、故郷は見つけるものである、と。