ダイアログ・イン・ザ・ダーク/ひとは暗闇を必要としている
少し前になるが、茂木健一郎さんのtwitterでのお勧めで、ダイアログ・イン・ザ・ダークに行ってきた。
8人のグループで一筋の光も見えない真っ暗闇に案内され、視覚障害者のスタッフの方を案内人(アテンド)として、遊んだり、しゃべったり、いろいろなことをするエンターテイメント。
チケットが5000円と一見高いが、間違いなく値段の分の価値があるので、既に知っていて行くのを迷っている方は是非お勧めしたい。
真っ暗闇なので、最初はやはり不安である。何も見えない、ということの異常なまでの不安。
「でもこれからどんどん楽しくなります」とアテンドの方が言っていた。
その通りだった。
何も見えないことを、諦めていったん受け入れてみれば、暗闇はただの暗闇なのだとわかる。
土の匂い、空気の匂い、こんなにも匂いが満ちているということを知ったり、暗闇のなかでの様々なやりとりでは声を掛け合って工夫したり、そういったことの一つ一つが、初めての体験で、慎重になりながらも楽しんでいる自分がいて、それがまさに生きているということなのではないかと思った。
そして、特筆すべきは、あの場でしか感じられない不思議な安心感だと思う。
見知らぬ人と、同じ空間にいて、あんなにも安心感を感じるのは初めての経験だった。
それはおそらく、人から見られないということ、そして暗闇という絶対的な障害を共有しているという意識、そのために一人一人の声がやさしく感じられ、自分もまたおそらく優しい声になっているだろう、ということではないだろうか。
いかに普段、人は見たり見られたりすることを意識して自分を制限しているか、そのことを切に感じる。
人から見えない、というだけで、こんなにも伸びやかになれるのかと思うと、やはり暗闇は人にとって必要なものなのではないかという考えがどうしても浮かぶ。
昔はもっと、身近なところに暗闇があった。
茂木さんの著書にも出てくるが、落語を聴いて、昔の人のほうが差別なく心あたたかに視覚障碍者に接していたと感じるのは、今と比べて、暗闇のなかで生活するとはどういうことか、想像がしやすかったことから来るというのは納得が行く話だ。
また、平安時代に男女はまず暗闇の中で逢ったことを思う。暗闇は、一気に壁を取っ払い、性的な高揚にも作用するけれど、実は暗闇のなかで人といることで、やすらかな喜びがまず生まれたのではないかと想像するのだ。
そして今や、お金を払って暗闇を求める時代となった。
けれどそれは、この時代になって、暗闇の価値を初めて見いだしたのだと言うこともできる。
事実、私はこのエンターテイメントは定期的に行きたくなるだろうと思った。
最後にアテンドの方の、とても印象的だったエピソードを紹介する。
すべてのプログラムが終了したあと、少しだけ明かりのある部屋で目を慣らしてから私たちは外に出た。外に出る最後のドアを案内するとき、アテンドの方がこう言った。
「こちらです。これからみなさんは光のなかへ戻っていきます」
その口調は柔らかく、とても自然だった。
私は突如雷に打たれたようにハッとした。
この人はずっと、暗闇のなかにいるのだ。そしてこれからも、ずっと、暗闇のなかで生活していく。
決まった台詞なのかもしれないが、私たちの気持ちを考えて自然にその台詞が出てくるということは、私には全く想像もできず、言葉も出なかった。気のせいなのかもしれないが、なんだかアテンドの方は、その台詞で、毎回自分のことを確かめているのではないかとも思った。
このとき私は、目が見える人と見えない人との、決定的な違いを、初めて体験したような気がした。
ダイアログ・イン・ザ・ダークでの体験を終えてから、茂木源一郎さんの著書「まっくらな中での対話 (講談社文庫) 」を読んだ。
とてもお勧めの本なので、体験する前でも後でもいいので、ぜひ読んでいただきたい。
Amazon.co.jp: まっくらな中での対話 (講談社文庫): 茂木健一郎 with ダイアログ・イン・ザ・ダーク: 本
そこには、アテンドの方々の対談が載っていて、そのうちの一人が「目が見えないことを個性だと思っている」と話していて、なるほどと合点した。
私たちを担当したアテンドの方も、そう思っていることはほぼ間違いないように思い、エンターテイメントのなかでの彼の最後の台詞を、改めて素晴らしいと思った。
上海とコスモポリタン
空港を下りて乗ったタクシーが走り出した瞬間から、空から降るいくすじもの光に街が包まれていくのを見て、なんとなしに旅の成功を予感した。
8年振りの上海。
突如訪問を思いついたのは、休職中で親が飛行機代を工面してくれたからだったが、小林秀雄を勉強しはじめて一年半、日本というものを一番根元から感じようとする作業のなかで、しだいに私は自分の出自を知らなければならないような気持ちは強くなってきていた。
生まれや育ちや環境に関係なく、面白いもの、美しいものを感受することを、最優先にしようと思ってきた人生だったように思うが、興味あるすべてが小林秀雄から離れることができなくなった今、彼が徹底的に考えた「日本人とは何か、日本の背負う歴史とは何か、まず歴史とはどう向き合えば良いか」といったことに誠実になろうとすればするほど、自分のことが気になるのは当然かもしれない。
歴史は鏡であると小林秀雄は言う。
自分を映す鏡のことを手探りで学んでいくうちに、日本人ではない、中国人でもない自分から、私はとうとう逃げ切れなくなったようだった。
それならば、真正面から向き合いたい。
それでずっと逃げてきた帰省をついに決意した、そういったことだったのである。
そんな私へ贈り物をするかのように、意識せず鞄につめた、たった一冊の本は小林秀雄全作品「中原中也」、彼が従軍記者として中国に渡ったときの記録「杭州」「蘇州」などが収録されていた。やはり人生は仕組まれているらしい。
タクシーが上海の中心部にある自宅近くを通る。自宅近くは景観保存区なので、8年前とさした変化がなく、懐かしい気持ちが一気に立ち上がった。
たとえば日本で、夏に寂れた商店街に踏み込むと突然懐かしい思いに襲われたり、夢に時折出てきてはどこかで見た事があると思ってきた景色。
それらの、記憶の片隅にある、いわば原風景というものが、すべてこの場所から来ているのではないか。
上海のどこにでもある、汚い小料理店の並ぶ通りや、頭を地べたにつけている乞食や、行き交う自転車を見て、それらすべてを包む背の高い梧桐の木の葉の擦れる音を聞いて、それこそ風のようにその考えはやってきた。
懐かしさの奥にある、やわらかく、しかし消えることのない痛みを孕んだ景色。
わたしの身体が持つ、そんな幻や夢の断片的な景色のすべてが、この街からできているのではないか。
6歳のときに中国を離れて以来、学生の頃は夏休みに何度か帰ったことはあるけれど、一ヶ月以上の滞在はしたことがなかった。
翌日、両親や親戚に連れられて、いろいろと街を歩く。自分でも散歩をする。
昔より随分きれいになった路が沢山あった。摩天楼はさらに増えている。親戚はそれを喜んでいるだけで、環境がどうのとはまだ言い出していないようだ。
新しい観光スポットは、商業化が著しく、どこを訪れても同じお土産を売っていたりして、少しも面白くない。言葉は悪いが、上海には今も昔も、観光する価値のあるものはさして無いのである。
道路の真ん中で遠慮もなしに行われていた通行人同士の喧嘩も少なくなり、サービス業の従業員も、けだるそうにしているものの、以前の「けんか腰」な態度から比べれば随分と親切になった。
小さな通りに入れば、それこそ時間に関係なく美味しそうな匂いがした。
私は確かめるような気持ちだった。日本に来てから24年の間に、昨日ほどに鮮明な確信を上海に対して感じたことは一度もない。
そして確かめる作業は、驚くほどうまくいった。
どれだけ歩いても、街のどこにいってもそれはただ、私の記憶のなかにある上海なだけだった。いつも自分のなかにある何かと、街は呼応して、おしゃべりしているみたいに感じた。私は、この街が好きだった。
それにしても、気合いの入った観光資源もなく、今や不動産バブルで日本より物価が高く、街をゆく人々の顔もどことなく冴えない色が多い街の、一体何がそこまで好きなのだろう。上海とは何だろう?
ずっとそのことを考えていると、あるとき、秋に吹く強い風が過ぎていったとき、砂埃りが舞い上がってひとつ、思いついたことがある。
この街は、砂埃の街なのではないか。
8年前、いや20年前から同じ印象だった。どうしてもきれいになりきれないのである。足元にはどこからかやってきた砂や、空気にはスモッグや、靄がいつもかかっているのだ。そしてきれいになりきれないところが、この街を作っているような気がした。そもそも、流れる河も黄河の支流で、濁っているのである。
このことは、きっと日本人は寂しく思うだろう、と感じた。空気から水から出汁の色まで、日本の文化はことごとく澄み切っている。
しかし私はどうやら、確かに上海という街で生まれたらしい。濁りを当然のことのように受け入れられる自分がいるのだ。
この旅の間じゅう、その思いがどんどん強くなって、自分のなかで砂のように沈殿していくのを感じた。それはこの街の砂とは違い、舞っても気がつかない、暗闇のなかの砂である。
小林秀雄「杭州」のなかに、中国で長く生活するロシア人の老婆のコスモポリタンの話が出てくる。
「私は人類ではない。somebodyだ」と、その老婆は言う。
老婆の描写から、小林秀雄はその悲しみを鋭く切り取っていて、流石だと思った。
これまで私はコスモポリタンであると、十数年に渡って思ってきた。それが嫌だったこともあるし、むしろせいせいしたと思うこともあった。どこまでも離れてやろうと思ったこともあった。しかし自分で気がつきもせずに、その問題はずっと眠っていたのである。
私はもう、コスモポリタンではない。
小林秀雄に出会い、池田先生に出会い、自分の痛みはどこから来ているかを徹底的に探そうとして、30歳でもう一度上海に来た。今、コスモポリタンではないと感じることが、どれほどに深く心に作用するか、私は身をもって体験することになった。
そして本居宣長や、源氏物語や、古事記を勉強する上で、どこか心の片隅で不安だったことが、一度に晴れたような気がした。
これからずっと日本で住みやがて死ぬことも、あるいはこれからすっかり上海が変わり今の面影がなくなってしまったとしても、構わないように思った。
少なくとも一度は、私は故郷を見つけた。それで十分だった。
どこにも属することのできない、漂流する者であることの悲しみを、上海を去る空港で今、切に感じている。
私と同じように、幼くして外国へ渡航した中国人二世の子供たちが、やはり故郷を見つけることができずに、コスモポリタンとしての孤独を感じながら生きていることを想わずにはいられない。
しかし私自身、そのことに気づいていたときも、どうすることもできなかった。
自らに向けて真っ向から問いを立てようとしなければ、孤独も悲しみも痛みも、感じることすらできない。
そして私は今こう思う。
おそらく誰にとっても、故郷は見つけるものである、と。
「サマーウォーズ」の奇跡
「サマーウォーズ」、この作品を見逃していたことに罪悪感すら感じる。
世界中の人々が集うインターネット上の仮想世界OZ(オズ)。ユーザーはパソコン、携帯電話、テレビなどから自分のアバターを使い、ショッピングやゲームだけでなく、現実の納税や行政手続きなどの様々なサービスを利用できる。
惜しくも数学オリンピック代表になれなかった高校2年生の小磯健二は、OZのメンテナンスのバイトをしながら夏休みを過ごしていたが、憧れの先輩篠原夏希から、「一緒に夏希の実家に行く」という「バイト」に誘われて・・・。
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異色の二つの景色を組み合わせるのは映画の常套手段である、と聞いたのは池田先生からだったっけ。
「夏休みの田舎の大家族」と「電脳世界」をぶつけたこのアニメは、アニメにしかできない最高の成功例といえるだろう。
そして異色の二つをぶつけながらも、崩壊しないように作品を保つには、絶妙のバランスの良さが要求されるわけだが、このアニメ映画を貫くのは、まさに奇跡のような調和と言っていい。
・絵における背景とキャラクターの描き方
・多数の人間の違いと共通点の書き分け
・色
・テーマに向かっていくつもの示唆の糸をつなぎながらも「しゃべりすぎない」こと
・ディテールにこだわりながら、全体の流れと勢いを失わないこと
どれも作家のバランスの良さが作品に現れて、真夏の炭酸飲料のような爽やかなスパークで心をまっすぐに打つ。
バランスがいいということは、物語の土台がしっかりしている、ということで、
そのために、ドキドキする展開も、笑ってしまう状況も、感心するようなアイデアも、思わず泣いてしまう場面も、作品という部屋にしっかりと入っていて、その世界からはみ出さない。
これがどれほど難しいことか、物語が大好きな人、自分で何かを作る人なら、よく知っているのではないだろうか。
この映画を見たのは池上高志さんが、Twitter上で少年のようにはしゃぎながら茂木健一郎さんにこの映画を勧めていたことからだった。
「池上さんが少年って!!」と半ば衝撃(失礼)を受けながら観たわけですがこれが大当たり(ありがとうございました)。
池上さんが仰っていたように、この映画を見ること自体、夏を楽しむひとつのイベントでもあるわけだけど、できれば何かのエネルギーに変換しないと申し訳ないような、そんなものを受け取ったのでした。
だからアニメを観た後は、みんなどういう風に過ごすんだろう、と、ふとそんなことが気になった。
夏休み前なら、きっといろいろなことがしたくなっただろうな。
ずっと行ってみたかった場所に行くとか、やってみたかったことをやるとか、好きな女の子に告白するとか、なんだかそんなまっすぐなことに誘われる映画なのだから。
それもこれも、この映画の根っこにあるものが、とっても健全だから起こること。
現代に住む私たちにとって、健全で、信頼できて、なおかつ社会に「通用する」物語が、どれだけ希有でそして大切か。
まっすぐに背すじを伸ばして、ちゃんと明日へ向かおうと思えるような、少年のための青春劇であり、子供のための冒険であり、大人のための朽ちない魔法であること。
物語の力とアニメの力をみごと最大限に引き出した、最高におすすめの映画です。
みなさんも夏が完全に終わる前に、ぜひ。