春や昔の夢のやう

小林秀雄を学ぶ池田塾に通う、歌と物語がすきな塾生の雑感です。

こいびと。(2002年小説)

ちっちゃいきのこさんにはおおきいくまさんのこいびとがいました。

くまさんは種族のなかではけっしておおきくはないけれど、それでもきのこさんよりはずっとずっおおきくて、きのこさんは見上げちゃうのだけれど、くまさんはいつもそっときのこさんに触れるのでした(きのこさんは終始どきどきしています)。

 

きのこさんは茶いろいまあるいあたまに白い斑点がついていて、からだは白でずんぐりしているきのこです。くまさんはあかるい茶いろのからだでふさふさの毛、やせていてすっきりした顔立ちをしています。

 

くまさんはいろんなことをして遊びます。

なにかちいさいいきものを追いかけたり、落ち葉を蹴ったり、跳ねたり、飛ぶまねをしたり

きのこさんはいつもそれをみています。

きのこさんは地面についているので、おなじようにはあそべません。

でもそんなことはあまりきにならないようです。

くまさんは時々きのこさんにめくばせをして、ほほえむのですが、

そんなとききのこさんは、気温がちょっとあがったようなきがします。

 

それでもきのこさんは、ときにかなしい気持ちになりました。

じぶんたちはまったく不釣り合いで、本来こいびとにはなれないのです。

くまさんは雄で、きのこさんは雄でも雌でもありませんでした。

 

 

 

「大丈夫だよ」と、くまさんは

「ずっとそばにいるよ」と、きのこさんのあたまをそっとなでるのでした。

「でも!でも僕はいつか死ぬよ。きみよりずっと早く死ぬ。」

きのこさんはくまさんのくちぶりをまねて、じぶんのことを「ぼく」、くまさんのことを「きみ」とよぶのでした。ところでそんな反論に、くまさんは、あたまをなでてばかりで、いっこうに相手にしません。

「ぼくも死ぬよ。たぶん、きみより後だけれどね。だからきみがいなくなるまでずっとそばにいるよ。」

 

「死んだらぼくもきのこになるのかな?」

くまさんは、おどけたようすできのこさんにたずねました。

きのこさんは、あ、とおもいついた顔をしました。

「そうだね。みんなそうやってきのこになるんだよ」

 

「ぼくの種族はね、みんな地下でつながっているんだ。これも、草の向こうのあれも、全部ぼくなんだよ。きみがぼくの種族になったら、それはぼくになるってことなんだ。そこのきのこと話したことはある?」

「あるよ」

「どうだった?」

「きのこだった」

きのこさんはくすくす笑いました。

「ほかには?」

 

くまさんはそのしつもんにはこたえずに、きのこさんのおかおをのぞきこみます。

 

君は君だよ。僕は君の種族に生まれ変わっても、君にはならない。

なれないんだ。

 

とくまさんは言いました。

 

君はたった一人しかいないよ。

ぼくは、きみが、すきだ。

 

 

 

 

 

それからいくにちかすぎたあるひ、きのこさんがいいというので、くまさんはきのこさんを持ち上げました。

 

きのこさんは嬉しくて嬉しくて

くまさんがいて、地面があって、空があって、木があって、

はじめて高いところから自分のいた場所をみて、なんて、

なんて広い森なんだと目を見開きました。

 

くまさんもきのこさんも、きのこさんを土から離してしまうと、きのこさんの命が縮まってしまうことを、なんとなく知っていました。

きのこさんは、幸せでした。これほどに、命がきらきら、きらきらと輝いたことはなかったのです。

それいらい、きのこさんは、このからだのおおきなこいびとをなんとかもちあげたいなと、ずっとずっと思っていました。

くまさんのかたにつかまって、いっしょにはねたり、はしったり、おどったりしている間じゅう、ずっとそのことがあたまの片隅にありました。

くまさんを持ち上げて、たかいたかいをして、かわいがってあげたいのです。きのこさんが感じたことを、くまさんにも感じてほしいのです。

だけれども、それはどうしても叶えられない夢でした。

だってきのこさんはとてもちいさくて、くまさんを支えられない。

土から離れてしまったので、おおきくそだつこともできない。

でももともと、土についていても、きのこはそんなに大きなものにはならないのです。

 

そうこうしているうちに、きのこさんが土から離れてなんにちもたって、

きのこさんはじぶんのいのちがのこり僅かなのを感じて、

おおきい枝がたくさんついたおおきなおおきな木の下で、ゆっくりとすごしました。

くまさんもとなりにいてくれました。

ほんとうにさいごまで一緒にいてくれるんだなあと思うと、

からだがあついのでした。

 

きのこさんは、だんだんと弱っていきます。

きのこさんは、うごかなくなりました。

きのこさんは、じょじょにからだがとけていきました。

とても、静かに、くずれていきます。

くまさんは、なんにちもなんにちも、それを時々みて、ときどき空を見て、ふうけいをみて、ときどききのこさんにさわるのでした。

少しむりをしていたけれど、ちゃんとさいごまでいっしょにいると、

やくそくをしたのだから。

 

きのこさんは、やがて、大きな木にすいこまれていきました。

きのこさんは、大きな木の一部になりました。

 

くまさんは大きな木になれないてつきでいっしょうけんめいのぼりました。うまれてからいっぺんもしたことがないので、不器用です。

くまさんは、じかんをかけてようやく木のはんぶんくらいまでくると、枝にそっとさわりました。手が震えているのがじぶんでもわかります。

そこにはたしかに、あのきのこさんがまざっていました。

匂いがからだじゅうにたちこめて、きのこさんに包まれているようでした。

 

きのこさんは木になってしまったので、もうしゃべることはできません。

でも、くまさんには、たくさんのことがつたわってきました。

くまさんのめには、涙がいっぱいになって、世界がよく見えないのだけれど、

せかいは、うつくしかった。

 

つぎのひも、そのつぎのひも、くまさんは大きな木に登りました。

けれども日をおうごとにだんだん、きのこさんの匂いはうすれていきました。

 

きのこさんは、いなくなりました。

 

きのこさんは、永遠に、いなくなりました。

 

しばらく日がすぎて、くまさんがながいながい眠りにつく季節になりました。つぎに起きるときは、きのこさんのことを忘れているかもしれません。

今年最初の雪景色の日

くまさんは眠りました。

それは深い、ふかい眠りでした。

 

上海とコスモポリタン(再)

 タクシーは観光スポットを通りすぎ、中心地へと向かっていた。窓の外を私はじっと眺めている。雲の隙間からさしこむ光に、街全体が包まれていく。想像していたよりずっと速く、あっという間に懐かしさが立ち上がる。私は驚き、心なしか身体が火照った。早く街を歩きたかった。

 秋晴れの朝にもスモッグがかかっている。摩天楼は、八年前よりさらに増えていた。道路は昔よりきれいだ。それでもメインロードから外れて細い路地へ入ると、埃っぽい小さな商店から、美味しそうな匂いが漂ってくる。

 朝食を買おうと点心屋に並んでいると、頭の上でかさ、と音がした。プラタナスの葉だった。このあたりはもともとフランス租界で、プラタナスが沢山植わっている。プラタナスは背が高く、枝を広げるので、道路にアーチがかかり、街は木々にすっぽりと包まれる。私は手のひらの上に落ち葉をのせて、木漏れ日にゆれるのを眺めていた。風が乾いた音をたてている。夏にしか、帰省したことがなかったと思い出す。

 夏に近所の神社の森のなかや、商店街を歩いていると、突然デジャヴに襲われることがあった。例えば、夕闇にまぎれてゆく大きな公園。古い灰色の建物。寂れた路地に無数の小さな商店。壁には木漏れ日がゆれている。違う景色のなかにある、ひとつの景色が、日本の片隅で私を呼び止めた。日本だけではない。旅で行ったタイでも、インドでも。

 それは、上海の景色ではないだろうか。

 プラタナスの葉が、手をすりぬけて、はらりと地に落ちた。

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「小説を書くことのできる人は、人生の基盤を奪われたことのある人だけです。その経験に沿って、小説は書かれなくてはならない。あなたにとってそれは、ご自分の出自ではないのですか」

 かつて大物編集者だったという、私塾の古典の先生に原稿を見せた際の、それが最初の言葉だった。

 私は五歳のときに父と母といっしょに日本に来て、日本で育った。学生の頃は年に一度、帰省をしていたけれど、社会人になってからは、一度も上海の地を踏んだことはない。中国語が不得意だったので、親戚とも縁遠くなっていた。

 自分の出自について、それ以上考えたことはなかった。いや、「考えた事がなかった」と思っていた。気がつけば私は、八年振りに上海に降り立っていた。

 

 次の日も、そのまた次の日も、街を歩く。ときに一人で、ときに両親や親戚に連れられて。今や日本より物価が高く、人々はどことなく冴えない顔。観光スポットはどこも商業化が著しく、古い石造りの建物を前に露店がずらりと並び、同じようなお土産を売っている。そしてどこへ行っても芋を洗うような雑踏。この街の一体何がこんなに心を惹くのだろうか・・・。最初の日の感慨は消えず、むしろ強さを増してきている。もうここは、私の記憶のなかにある上海だった。ひどく変わってしまったはずなのに、何もかもがそのままだった。歩くごとに、私の心と、街が呼応する。おしゃべりをしているみたいだと思った。私は、この街が好きだった。

 忙しい交差点を行き交う自転車の群れ。街角の渋滞に、クラクションのシンフォニー。そのすぐ横に、頭を地べたにつけて拝んでいる乞食。雑踏の音。風の音。心が膨張していく。懐かしさの奥に、やわらかい、痛みを孕んだ景色。ただ懐かしさを連れてくるあの小さな幻を、原風景と呼んでいた。いつも会いたかった。その景色のすべてが、ここにある。私と、上海をつなぐもの。生活の機微も、土地の言葉も、人との繋がりも、何も無い。もうそれしか残っていない。それが私のかなしみだった。

 小林秀雄杭州」のなかに、中国で長く生活するロシア人の老婆の話が出てくる。中国で自在に暮らしながら、「私は人類ではない。somebodyだ」と老婆は寂しそうに言う。小林秀雄はその老婆の姿を、コスモポリタンと呼んだ。

 私はそれを読んで、小学生のときに好きな男の子に「お前、国、間違えてるよ」と揶揄われたときの、さみしい気持ちを思い出す。私はコスモポリタンだった。

 いま、宙に浮いていた身体が、静かに地へとおりてゆく。例えこの先ずっと日本に住み、やがて死ぬとしても、あるいは上海が変わりはてて今の面影がまるでなくなってしまうとしても、それで構わないと思った。少なくとも一度は、故郷を見つけることができたのだ。

 帰りの飛行機を待つ上海浦東国際空港で、私は、自分と同じ華僑二世の子供たちのことを思わずにはいられなかった。幼くして外国へ渡航した子供たちの多くが、やはり説明のつかぬような孤独や寂しさを感じながら、そのことに気づくことなく生きているだろう。けれど記憶はいつも、足跡を残してゆく。あらゆる場所から、ささやきかけている。そこから先は誰にとっても、故郷は「見つける」ものではないだろうか。光を浴びたかなしみは、やがて透明になる。私はもう、コスモポリタンではない。

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「思い出す」こと

「思い出す」という言葉を小林秀雄は度々使う。

 

たとえば本居宣長の奥墓(おくつき)。
本居宣長にはお墓が二つある。家族のお墓と、自分だけのお墓とされる奥墓。
奥墓は山の奥にひっそりとあって、シンプルなお墓と、自筆の墓標と、生前大好きだった桜の木が植えてある。

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それは彼がどんな人間であったか、「思い出して」もらうための手続きとしてのお墓のあり方なのだと、本居宣長記念館の館長が語ってらした。
「けれど、私たちは直接は宣長さんのことを知らない。それに本居宣長の言葉は、そのままでは私たちはもう簡単には読むことができない。本居宣長が植えた桜の木は、高くなりすぎて、もう花は肉眼で確認することができないのと、同じことのようです」
そんな風に館長は仰った。

 

本居宣長という人は文字通りの天才(奇才)で、明らかに人の一生で終えられるような量とは思えない量の仕事をしている。
そういう意味では小林秀雄も同様であり、それだけでも、どんな人であったのかなどということは凡人の私たちには想像がしがたいところがある。

 

けれど、たとえば愛する家族や恋人や友達が亡くなったときにするように、他人のことを親身に「思い出す」という心の使い方があるということを小林秀雄は語っていて、
私はそれがどれほど難しいか、どれほど遠いものなのか、そしてほんの少しでも「こうだったのかな」とくっきりと思い浮かぶときに、どれほどにわくわくするものなのか、今回の旅でそれを思い知ったように思う。

文章を読むだけでなく、資料を見てその字の形を見たり、同じ部屋に座ってみたり、街を歩いてみたり、そういうことをしてその欠片を掴めるかもしれないという予感のようなものは、何回か味わった。

小林秀雄が選んだ「本居宣長」という生涯最大で最後の仕事は、本居宣長のことをよく「思い出す」ことだった。
そしてその仕事がどんなに美しいかを、私たちはまだ生身の自分のままで確認することができる。
そういう時代に私たちは生きていて、それはやっぱり奇跡のように思った。